2016年11月11日金曜日

【11】ローマ亡き後の地中海世界 上 (新潮社)

この本では、
イスラム教徒のキリスト教世界への進出(7~10世紀)と
キリスト教世界のイスラム教徒への反撃(11世紀~13世紀)が主に描かれている。

キーワードは
「イスラム教徒(特に海賊)、
(イスラム教徒に連れ去られた)奴隷、
イタリア海洋国家の発展の過程」
となるだろう。

10世紀頃までのイスラム勢の一方的な攻勢に
キリスト教世界はなぜやられてばかりであったのか、
そこからどう反撃していくのかが時系列で分かる本である。



著者は冒頭でイスラム教が台頭した理由を次のように述べる。


『イスラム勢力圏の急速な拡大の要因は、ある歴史研究者によれば次の一事につきる。
「新興の宗教が常にもつ突進力と、アラブ民族の征服欲が合体した結果」
………
しかしこれは、キリスト教側の見方であって、
イスラム側はちがう見方をとる。
彼らは、この時代からは一千三百年が過ぎた現代でもなお、
イスラム教の教えの真正さに人々が感銘を受けたがゆえである、
という見方をとっている。
とはいえ二十一世紀の現在では、
真のイスラム教は暴力の行使を嫌悪している、という論が、
イスラム世界とキリスト教世界の双方から、
両者の歩み寄りのスタート・ラインでもあるかのように言われることが多くなっている。
しかし、つい先頃までの長い歳月にわたって、現実はそうではなかった。
………
宗教が、既成の世俗国家を乗っ取ったという点では似ているキリスト教とイスラム教だが、
ローマの公認宗教になるのに三百年かかったキリスト教に比べて、
イスラム教はこの面でも恵まれていた。
キリスト教の相手は強大で充分に機能していた元首政時代のローマ帝国だったが、
イスラム教が立ち向かった時期のペルシア帝国もビザンチン帝国も弱体化していたからである。
ペルシア帝国は、
北東からの蛮族の侵略とビザンチンとの間の終わりのない戦争で疲弊していたし、
ビザンチン帝国のほうも似たような状態で、
そのうえ、東方のキリスト教ならではの教理論争で、
教会内でさえも分裂し、互いに憎悪し合っていたのである。
………
アレクサンドリアがイスラム勢に占領されたとの報に、
歓声をあげながら街にくり出したのは、
コンスタンティノープルのキリスト教徒たちであったのだ。
帝国内部のこの分裂に加えて、ビザンチン帝国の特質の一つに、
汚職と重税があった。
悪政の要因がこうも重なっては、人々の間に不満が広がるのも当然である。
イスラム教の浸透には、
キリスト教のように三百年もの歳月は必要ではなかったのだ。
絶望している人間は、容易にすがれる相手を見つけるものである。
しかし、深遠な教えは、心の中を清らかにし死後の安心を恵むかもしれないが、
現に生きているこの世での行動に駆り立てるというたぐいの力は与えない。
具体的で現世的な利点が、
えてして人間に、決定的な一歩を踏み出させるきっかけになる。
イスラム教徒になることの魅力は、
複雑で重い税金に苦しんでいたビザンチン帝国のキリスト教徒たちにとっては、
その悩みを一掃してくれると思えたのにちがいない。』
(22-24P)







2016年4月7日木曜日

「ローマ人の物語」で描かれるキリスト教

「ローマ人の物語」の中で、塩野七生がどのようにキリスト教を描いているのかを抜き出してみた。



1.悪名高き皇帝たち[二] 18 (177-178P) 


イエス・キリストの処刑も、イェルサレムの祭司たちで構成された法廷が死刑の判決を下し、当時のユダヤ長官のポンツィオ・ピラトがOKを与えたので実施されたのである。

ピラトがユダヤ側の圧力に屈せずに、自分が体現するローマの法に従って行動していたとしたら、イエスの十字架上の死は実現しなかったのである。

神の名を簡単に口にすることはユダヤ教ならば極刑に値しても、神々のたくさんいるローマでは罪にもならないからだ。

また、社会不安の源になる可能性大という理由も、実際になったわけではなく可能性にとどまるならば、ローマ法では追放に処されて終わりだった。

だが、十字架上で死なずに黒海あたりに追放になったイエスでは、後のキリスト教拡大の起因になりえなかったであろう。

ピラトはこの一事だけでも、祖国ローマに害をもたらしたのである。



2.迷走する帝国[下] 34 (114-115P)


ローマ皇帝アウレリアヌスの前に、互いに争う二派の代表が呼び出された。

争点とは、キリスト教会では、ローマの司教とアンティオキアの司教のどちらが上位に立つべきか、であった。

ローマの司教が上位であるべきとする派と、アンティオキア司教上位派で争っていたのだった。

この問題の裁決を求められた皇帝アウレリアヌスは、何を判断の基準にしたのか不明だが、キリスト教会ではローマの司教が最上位にくるという裁決を下したのである。

これが、キリスト教徒が決めたことではなく、キリスト教徒が決めたことであったという事実が興味深い。


3.キリストの勝利[中] 39 (177、68-69P)


後世が信じ込んでいるようには、四世紀のローマ帝国はキリスト教一色ではなかった。

いまだ異教勢力は、キリスト教勢力が強かった帝国の東方でさえも無視できない力をもっていた。

ユリアヌスの登位を機に各地で頻発した異教徒たちのキリスト教コミュニティへの反撃が、それを実証している。

また、キリスト協会自身も内部抗争が激しく、近親憎悪ではないかと思うほどに、アリウス派とアタナシウス派は憎み合っていたし、さらにこの両派の内部でも、教理の解釈の微細なちがいをかかげての抗争は激増していたのである。


ユリアヌスは、後代の歴史家たちがこぞって言う、「キリスト教と異教の抗争の最後の世紀」であった四世紀のローマ帝国に生きた人の一人なのである。

それで、「背教者」と弾劾されることになるユリアヌスの行った反キリスト教会とされる政策だが、それを一言でまとめれば、ローマ帝国民の信教状態を「ミラノ勅令」にもどした、のである。

ユリアヌスによってふたたび、あらゆる信仰がその存在を公認された。

ギリシア・ローマの神々もエジプトのイシス神もシリア起源のミトラ神もユダヤの髪も、キリスト教内部でも、これまで教理解釈の違いで争ってきた、三位一体説をとるアタナシウス派もそれに反対するアリウス派も、またこの二派以外の他の派も、何もかもがOKということになったのである。

信仰の完全な自由を保証する以上は、「異教徒」という蔑称も、「異端」という排斥の想いも、あってはならないというのが、「全面的な寛容」の名の許に向上された、皇帝ユリアヌスの勅令であった。


4.キリストの勝利[下] 40 (138-140P)


人間は、何かにすがりたいから宗教を求める。

だが、すがりたい想いはなぜか、唯一神にお願いするのははばかられるような、身辺の雑事であることが少なくない。

昔は、夫婦喧嘩にさえも守護神がいて、その神に祈願するのでこと足りたのだが、一神教の世の中になった今では、夫婦喧嘩を担当していた女神ヴィリプラカもアウトローの一人になってしまっている。 

と言って、唯一最高の神や、その子イエス・キリストにお願いするのも気がひける。

誰か他に、もう少し大仰でなく気軽にすがれる守護者はいないものか。

人々の素朴で健全なこの願望を、アンブロシウスは汲み上げる方策を考え付いたのであった。

とはいえ、キリスト教では神は一人しか認めていない。

ゆえに昔の神々を復活させることはできない以上、新たな守護者を見つける必要があった。

アンブロシウスが考えついたのが、聖人を大量に生産することである。

一神教の世界での敬いの対象であるからには、多神教のような「守護神」ではなく。「守護聖人」となる。

それでも、アンブロシウスは一神教は守りながら民衆の素朴な願望も満足させるという離れ技を、見事なまでに成功させたのであった。


2013年10月24日木曜日

【10】★★十字軍物語1(新潮社)

世界史Bの教科書(山川出版社)の第一次十字軍の記載は以下の通りである。
「11世紀に東地中海沿岸に進出し、聖地イェルサレムを支配下においたセルジューク朝は、ビザンツ帝国をもおびやかしたので、ビザンツ皇帝は教皇に救援を要請した。教皇ウルバヌス2世は1095年クレルモン宗教会議を招集し、聖地回復の聖戦をおこすことを提唱した。こうして翌96年諸侯や騎士からなる第一回十字軍が出発し、1099年イェルサレムを占領してイェルサレム王国をたてた」
教科書では歴史の面白さは十分に分からない。塩野七生氏の「十字軍物語1」は第一回十字軍を知るための最良の参考書の一つである。本に基づき、私なりに第一回十字軍をまとめてみた。



【第一回十字軍(諸侯たちの十字軍)】1096~1099年
<きっかけ>1095年のクレルモン公会議
教皇ウルバン2世のオリエント遠征の呼びかけ:キリスト教徒同士の戦争を批判、勢力を広げているイスラム教徒を攻撃すべきと演説

<構成>キリスト教国の領主7名:総勢50,000程度(中心は、ゴドフロア、ボエモンド、サン・ジルの三名)
①フランスの王弟ユーグ…小規模 →アンティオキア攻略後、帰国
②ノルマンディー公…小規模 →イェルサレム解放後、帰国
③ブロア伯…数百~1,000 →アンティオキア攻防戦中に戦線離脱
④フランドル伯…騎兵500 →イェルサレム解放後、帰国
⑤トゥールーズ伯サン・ジル…25,000 →トリポリ伯領の基盤を築く
⑥ロレーヌ公ゴドフロア…騎兵5,000、歩兵15,000→イェルサレムの統治者に
ボードワン(弟)→「エデッサ伯」→ゴドフロアの死後、イェルサレム王「ボードワン一世」に
もう一人のボードワン(いとこ)→「エデッサ伯」→ボードワン一世の死後、イェルサレム王に
⑦ブーリア公ボエモンド…騎兵5,000、歩兵10,000 →「アンティオキア公領」
タンクレディ(ボエモンドの甥)

<経過1>
・1096年夏以降 諸侯がヨーロッパ各地から集結地のコンスタンティノープルに向けて立つ
○1097年5月  小アジアに上陸し、セルジューク朝の支配下のニケーアを包囲、10,000のセルジューク朝の援軍を退け、6月に無血開城。
○1097年6月  ドレリウムの戦闘(セルジューク朝23,000の損失、十字軍4,000の損失)。
○1097年秋   ボードワンとタンクレディの別動隊がタルソスを占拠
・1097年    ボードワン歩兵2,000と騎兵500を率いてエデッサに入城。「エデッサ伯領」の成立。
・1097年10月 アンティオキア攻防戦
○1098年6月  アンティオキア陥落、市内での殺戮。その後イスラムの救援軍によって逆包囲されるが撃破。

<アンティオキア攻略以降の十字軍の構成>総勢12,500
第一軍:サン・ジル、ノルマンディー公、タンクレディ 歩兵5,000、騎兵1,000
第二軍:ゴドフロア、フランドル伯 歩兵6,000、騎兵500

<経過2>
・1099年1月 アンティオキアよりイェルサレムに向けて行軍開始
・1099年6月 イェルサレム攻城戦
○1099年7月 イェルサレム陥落、市内での大殺戮。ゴドフロアが実質的な統治者「聖墓守護者」に。
○1099年8月 10,000前後の十字軍、エジプトの30,000の軍勢を撃破
×1101年   小アジアでサン・ジルを総大将とする十字軍が惨敗。以後、シリアへは海路が選ばれるようになる。

<イェルサレム陥落後の経過>
①フランドル伯、ノルマンディー公の帰国により十字軍弱体化。イェルサレムに残ったのは、ゴドフロアとタンクレディの歩兵2,000、騎兵300
②イェルサレム周辺の制圧。
③1100年7月 ゴドフロアの死。サン・ジルのコンスタンティノープルへの撤収。
④アンティオキア公ボエモンドの捕囚
⑤エデッサ伯ボードワンがイェルサレム王「ボードワン一世」に        
⑥いとこのボードワンがエデッサ伯に
⑦タンクレディがアンティオキア公に
⑧ボエモンドの釈放。再びアンティオキア公に。タンクレディは解任。
⑨ハランの戦い。エデッサとアンティオキアの連合軍、イスラム軍に敗北。エデッサ伯ボードワンが3年間に捕虜に。
⑩タンクレディがボードワンが釈放されるまで一時的にエデッサ伯に。
⑪1105年春 サン・ジルが騎兵300でトリポリへ侵攻。イスラムの大軍を破る
⑫1109年 サン・ジルの息子のベルトランがトリポリ攻略、トリポリ伯に
⑫ボエモンド、ビザンチン帝国の都市ドゥレスの攻略に失敗。1111年南伊で死去。
⑬1112年 タンクレディ死去
⑭1118年 ボードワン一世死去 ~十字軍第一世代の全員が退場~
⑮エデッサ伯ボードワンがイェルサレム王に

<反応>
第一次十字軍当時のイスラム世界では、十字軍が宗教を旗印にした軍隊であるとは、誰一人考えていなかった。ビザンチンの皇帝が旧領を再復したいがために傭ったと思い込んでいた。イスラム側が、十字軍が神の旗の下にまとまった軍勢であり、十字軍遠征の目的が、イスラムを撃退し、その地に十字軍国家を打ち立てることを完全にしるのは、この時期よりは80年も後のサラディンによってなのである。

<締めくくり>
皇帝も王も参戦していなかった第一次十字軍の主人公たちは、ヨーロッパ各地に領土をもつ諸侯たちであった。彼らは、ときに、いやしばしば、利己的で仲間割れを繰り返したが、最終目標の前には常に団結した。この点が、利己的で仲間割れすることでは同じだった、イスラム側の領主たちとのちがいであった。それこそが、第一次十字軍が成功した主因なのである。


2013年4月5日金曜日

【9】★マキアヴェッリ語録(新潮文庫)

「マキアヴェッリ語録(塩野七生著、新潮文庫)」は学生の時に読んだ本で、10年ぶりに再度読んでみました。学生の時はよく分からなかったことも、時が経てば、感じ方も変わってきます。著者の塩野氏は、「実際に役に立つものを書くのが自分の目的だ」というマキアヴェッリの言葉を引用し、彼の「生の証し」のエッセンスを現代の日本人に提供したかったと、冒頭で述べています。現代にも通じる普遍性のあるマキアヴェッリの語録の中から、私が気に入ったセンテンスをランキング形式でご紹介します。

【ランク外】 人間というものは、現にもっているものに加え、さらに新たに得られるという保証がないと、現にもっているものすら、保有しているという気分になれないものである。 (233p)

【ベスト5】 不正義はあっても秩序ある国家と、正義はあっても無秩序な国家のどちらかを選べと言われたら、わたしは前者を選ぶであろう。 (148p)

【ベスト4】 君主(指導者)たらんとする者は、種々の良き性質をすべてもち合わせる必要はない。 しかし、もち合わせていると、人々に思わせることは必要である。 いや、はっきり言うと、実際にもち合わせていては有害なので、もち合わせていると思わせるほうが有益なのである。 思いやりに満ちており、信義を重んじ、人間性にあふれ、公明正大で信心も厚いと、思わせることのほうが重要なのだ。 それでいて、もしもこのような徳を捨て去らねばならないような場合には、まったく反対のこともできるような能力をそなえていなかればならない。 (67‐68p)

【ベスト3】 古代のローマ人は、名誉を尊ぶ気持が非常に強い民族だったが、それでもなお、かつての部下に命令される立場になっても、不名誉なこととは少しも考えなかった。 高位にあった者がそれ以下の任務を与えられると恥と思われている現代(十六世紀)では、想像もできない現象である。 しかし、これでは、個人の名誉は守られるかもしれないが、共同体にとっては、不利にならざるをえない。 共和国にとって信頼できる市民とは、下位から上位に昇進する者よりも、上位から下位にさがっても不満なく任務をまっとうする人物である。 なぜなら、前者は経験が不足しているので周囲に人を得て事を進め、それによって信頼を獲得するには、ある程度の時間を必要とするからである。反対に後者には、そのための時間は必要ではない。ために、ただちに戦力になりえるのだ。 (156‐157p)

【ベスト2】 古今東西多くの賢人たちは、想像の世界にしか存在しえないような共和国や君主国を論じてきた。しかし人間にとって、いかに生きるべきかということと、実際はどう生きているかということは、大変にかけ離れているのである。 だからこそ、人間いかに生きるべきか、ばかりを論じて現実の人間の生きざまを直視しようとしない者は、現に所有するものを保持するどころか、すべてを失い破滅に向うしかなくなるのだ。 なぜなら、なにごとにつけても善を行おうとしか考えない者は、悪しき者の間にあって破滅をせざるをえない場合が多いからである。 それゆえに、自分の身を保とうと思う君主(指導者)は、悪しき者であることを学ぶべきであり、しかもそれを必要に応じて使ったり使わなかったりする技術も、会得すべきなのである。 (62‐63p)

【ベスト1】 なぜ古代では秩序が保たれ、なぜ現代(十六世紀)では無秩序が支配しているかの理由解明は、これまた簡単である。 すべては、昔は自由人であったのが、今では奴隷の生活をするしかないことにある。 前にも説明したように、自由に生きることのできる国では、社会全体が繁栄を享受できるようになるとは、歴史が示してくれる真実である。 そのような社会では、結婚を避ける傾向もなく、財産を減らすおそれももたずに子孫を増やすことができたので、人口は健全な増え方をしたのであった。 親たちは、自分の子が自由な社会に生き、それゆえに才能さえあれば、指導者階級に属することも可能だと信ずることができたから、子の生まれるのを喜び、その子たちの養育にも力を入れることができたのだ。 このような国家では、あらゆる分野での富が増えつづける。人々は、富を増やせば増やすほど、それを享受する喜びも増すことを知っていたからである。 このような社会では、自由競争の原理が支配的になる。私的な利益と公的な利益の両方ともが、ごく自然な形で追求されるようになる。結果は、両方ともの繁栄につながるのだ。 (148-149p)


2013年4月1日月曜日

ローマ皇帝の通信簿(アウグストゥス帝~テオドシウス帝)

塩野七生著の「ローマ人の物語」を参考に、個人的主観で、ローマ皇帝の通信簿を作成中です。

評価項目は以下の通り
・戦争…本人もしくは配下の軍事的才能
・民衆…民衆からの人気
・軍隊…軍隊からの支持
・元老…元老院からの支持
・治世…3年未満1、3~5年未満2、5年~10年未満3、10~20年未満4、20年以上5
・安定…反乱(内乱)、外敵・蛮族に侵入が発生した場合は低評価。ローマ帝国に住む人々の幸福度合
・滅亡…マイナスポイント。衰退につながる政策。
・ボーナス…偉業を達成

≪参考≫
■ユリウス・カエサル 暗殺
戦争5、民衆5、軍隊5、元老1、治世1、安定1 ボーナス5 合計23
※ガリア制圧、政敵ポンペイウスを撃破、帝政への道を開く

≪帝政初期≫
■アウグストゥス(紀元前30-14) 病死
戦争4、民衆5、軍隊4、元老4、治世5、安定3 ボーナス5 合計30
※内乱を終結、帝政の確立に貢献

■ティベリウス(14-37) 病死
戦争4、民衆2、軍隊3、元老2、治世5、安定4 ボーナス3 合計23
※帝政を盤石に。ゲルマニアから撤退。

■カリグラ(37-41) 暗殺
戦争1、民衆2、軍隊3、元老2、治世2、安定3 合計13

■クラウディウス(41-54) 暗殺
戦争3、民衆2、軍隊4、元老3、治世4、安定5 合計21
※歴史家皇帝。ブリタニア制圧

■ネロ(54-68) 自殺
戦争3、民衆2、軍隊1、元老1、治世4、安定3 合計14

■ガルバ(68-69)暗殺
戦争1、民衆3、軍隊1、元老4、治世1、安定2 合計12

■オトー(69)自殺
戦争1、民衆3、軍隊3、元老3、治世1、安定2 合計13

■ヴィテリウス(69)謀殺
戦争1、民衆2、軍隊2、元老3、治世1、安定1 合計10

■ヴェスパシアヌス(69-79) 病死
戦争3、民衆4、軍隊3、元老3、治世3、安定4 合計20
※ユダヤ戦役、コロセウム建設

■ティトゥス(79-81) 病死
戦争3、民衆4、軍隊4、元老4、治世1、安定5 合計21
※ユダヤ人の反乱を鎮圧、ヴェスヴィオ火山の噴火

■ドミティアヌス(81-96) 暗殺
戦争2、民衆3、軍隊5、元老1、治世4、安定3 合計18
※ゲルマニア防壁の建造

≪五賢帝時代≫
■ネルヴァ(96-98) 病死
戦争2、民衆3、軍隊3、元老5、治世1、安定5 合計19

■トライアヌス(98-117) 病死
戦争4、民衆5、軍隊5、元老5、治世5、安定5 総合29
※ダキアとアラビアを属州化。帝国の版図が最大化。 

■ハドリアヌス(117-138) 病死
戦争3、民衆4、軍隊5、元老3、治世5、安定4 総合24
※ハドリアヌスの防壁の建造、国境線強化、イェルサレムからのユダヤ人の追放 

■アントニヌス・ピウス(138-161) 病死
戦争1、民衆5、軍隊4、元老5、治世5、安定5  合計25

■マルクス・アウレリウス・アントニウス(161-180)  病死
戦争3、民衆5、軍隊4、元老5、治世4、安定2  合計23
※ゲルマン民族との戦いを優位にすすめ、ボヘミアの属州化を計画するも病死により頓挫。

≪五賢帝以後≫
■コモドゥス(180-192) 暗殺
戦争2、民衆2、軍隊4、元老2、治世4、安定4  合計19
※ゲルマン民族と和平。

■セプティミウス・セヴェルス(193ー211) 病死
戦争4、民衆4、軍隊4、元老2、治世4、安定3 滅亡-3 合計19
※北部メソポタミアを属州化。軍制改革。

■カラカラ(211-217) 暗殺
戦争4、民衆1、軍隊2、元老2、治世3、安定5、滅亡-5 合計12
※属州民とローマ市民の差別を撤廃、国境線強化

■マクリウス(217-218) 暗殺
戦争2、民衆2、軍隊1、元老2、治世1、安定4 合計12
※北部メソポタミアを割譲

■ヘラバガルス(218-222) 暗殺
戦争2、民衆1、軍隊1、元老2、治世2、安定4 合計12

■アレクサンデル・セヴェルス(222-235) 暗殺
戦争3、民衆2、軍隊2、元老3、治世4、安定4 合計18
※北部メソポタミア奪還

≪軍人皇帝時代(元老院の影響力の低下)≫
■マクシミヌス・トラクス(235-238) 暗殺
戦争4、民衆3、軍隊3、元老1、治世2、安定4  合計17

■ゴルディアヌス3世(238-244) 暗殺
戦争2、民衆3、軍隊2、元老3、治世3、安定2  合計15
※ササン朝にアンティオキアを略奪されるが、のち占領されていた北部メソポタミアを再復。

■フィリップス・アラブス(244-249) 自殺
戦争2、民衆3、軍隊1、元老2、治世3、安定3 合計14
ササン朝と講和、北部メソポタミアの割譲、建国1千年祭

■デキウス(249-251) 戦死
戦争3、民衆3、軍隊4、元老3、治世1、安定2 合計16
※社会の秩序を取り戻そうとキリスト教徒を弾圧。防衛線再構築。ゴート族との戦闘中に戦死。

■トレボニアヌス・ガルス(251-253) 暗殺
戦争1、民衆2、軍隊1、元老3、治世1、安定2 合計10
※ゴート族と講和。その後30万の蛮族の大侵入、各都市を略奪して引き上げる。

■ヴァレリアヌス(253-260) 獄死
戦争2、民衆3、軍隊4、元老3、治世3、安定2 合計17
※公務も兵役も回避するキリスト教徒を弾圧。ササン朝のシャープール1世に捕らわれる。

■ガリエヌス(260-268) 暗殺
戦争2、民衆2、軍隊1、元老2、治世3、安定1、滅亡-5 合計6
※ガリア帝国・パルミア王国の独立。ゲルマニア防壁内を放棄。元老院と軍隊の分離。

■クラウディウス・ゴティクス(268-270) 病死
戦争4、民衆3、軍隊4、元老4、治世2、安定3 合計20
※ゴート族を征した者という意味の「ゴティクス」と呼ばれる。

■アウレリアヌス(270-275) 謀殺
戦争5、民衆4、軍隊4、元老2、治世2、安定2 ボーナス5 合計24
※ローマに城壁を建設。属州ダキアの放棄。パルミア攻略、ガリア再復し、ローマ帝国再統一。

■プロブス(276-282) 謀殺
戦争3、民衆4、軍隊4、元老3、治世3、安定1 合計18

■カルス(282-283) 事故死
戦争4、民衆3、軍隊4、元老3、治世1、安定4 合計19
※北部メソポタミア再復

≪専制君主制時代(独裁の始まり・中世への礎)≫
■ディオクレティアヌス(284-305) 病死
戦争4、民衆-、軍隊4、元老-、治世5、安定4、滅亡-1 合計16
※四頭政、軍隊倍増、防衛線強化、キリスト教徒弾圧、元老院と軍隊の完全分離、職業の世襲化

■コンスタンティヌス(307-333) 病死
戦争4、民衆-、軍隊4、元老-、治世5、安定2、滅亡-1 合計14
※コンスタンティノープルへ遷都、キリスト教を公認

■コンスタンティウス(337-361) 病死
戦争3、民衆-、軍隊3、元老-、治世5、安定2 滅亡-3 合計10
※ライバルの粛清・内戦による軍事力・国力の低下、蛮族の侵入常態化、キリスト教を優遇

■ユリアヌス(361-363) 戦死
戦争4、民衆-、軍隊4、元老-、治世2、安定3 合計13
※キリスト教優遇策を撤廃、ペルシャ遠征失敗

■ヨヴィアヌス(363-364) 病死
戦争2、民衆-、軍隊4、元老-、治世1、安定4 合計11
※ユリアヌスの政策の廃棄、北部メソポタミアの割譲

■ヴァレンティニアヌス(364-375) 急死
戦争4、民衆-、軍隊3、元老-、治世4、安定3 合計14

■ヴァレンス(364-378)戦死
戦争1、民衆-、軍隊3、元老-、治世4.安定1 滅亡-1 合計8
※帝国内にゴート族の移住を認めるが、そのゴート族に大敗

■テオドシウス(378-395)病死
戦争3、民衆-、軍隊3、元老-、治世4、安定3 合計13
※異端(アリウス派)・異教の弾圧、ローマ帝国のキリスト(カトリック)教国化



「善帝」ベストランキング
1位:アウグストゥス(紀元前30-14) 30
2位:トライアヌス(98-117) 29
3位:アントニウス・ピウス(138-161) 25
4位:ハドリアヌス(117-138) 24
5位:アウレリアヌス(270-275) 24
6位:ティベリウス(14-37) 23
7位:マルクス・アウレリウス・アントニヌス(161-180) 23
8位:ティトゥス(79-81) 21
9位:クラウディウス(41-54) 21
10位:クラウディウス・ゴティクス(268-270) 20


「悪帝」ワーストランキング
1位:ガリエヌス(260-268) 6
2位:ヴァレンス(364-378) 8 
3位:ヴィテリウス(69) 10
4位:トレボニアヌス・ガルス(251-253) 10
5位:コンスタンティウス(337-361)10
6位:ヨヴィアヌス(363-364) 11
7位:ガルバ(68-69) 12
8位:ヘラバガルス(218-222) 12
9位:カラカラ(211-217) 12
10位:オトー(69) 13

2013年3月21日木曜日

【8】★ローマ人の物語41~43 ローマ世界の終焉(新潮文庫)

塩野七生氏のローマ人の物語を読み終えた。大学生の頃から呼んでいるので、足かけ10年にもなる。

文庫版の最終巻の冒頭は、このように始まっている。『人間ならば誕生から死までという、一民族の興亡を書き終えて痛感したのは、亡国の悲劇とは、人材の欠乏から来るのではなく、人材を活用するメカニズムが機能しなくなるがゆえに起こる悲劇、ということである。』

衰退する西ローマ帝国に二人の司令官が奮闘する。ヴァンダル族出身のスティリコと、蛮族中の蛮族と恐れられたフン族を撃退したアエティウスである。だが、国を想って、一生懸命、働いた結果、二人とも、時の皇帝に殺害される。
こうなると、帝国は滅亡を待つしかない。

滅亡後、西ローマ帝国の領土はゲルマン系の諸民族の各王国が成立し、ゲルマン民族は、それぞれの土地のローマ人と共生するようになる。およそ半世紀後、そこに解放を掲げて、東ローマ帝国軍が侵攻を開始した。

塩野氏は、こう述べている。『戦争は、弁解の余地もない「悪」である。その「悪」に手を染めねばならなくなった軍事関係者が頭にたたきこんでおかねばらならないことの第一は、早く終える、に尽きるのであった。(下、142P)』

『十八年におよんだユスティニアヌス帝によるイタリア再復戦争も、ようやく終結したのである。ローマ帝国が健在であった時代は帝国の本国であったイタリアは、考えられないくらいの打撃と被害を受けたのであった。一世紀前の五世紀に繰り返された蛮族の来襲よりも、自分たちとは同じカトリックのキリスト教を信じるビザンチン帝国が始めたゴート戦役のほうが、イタリアとそこに住む人々に与えた打撃は深刻であったのだ。このことは近現代の歴史研究者の多くが認める事実である(下、208P)』

2013年3月17日日曜日

【7】★ローマ人の物語38~40 キリストの勝利(新潮文庫)

塩野七生著のローマ人の物語キリストの勝利(新潮文庫)を読んだ。紀元4世紀。1000年続いた古代ローマは滅亡に急速に向かっている。荒れた農村を復興してくれるものとして期待した蛮族(難民)の帝国内への受け入れは、まったく期待通りにならずに国庫の支出の増大と国内の治安悪化をもたらした。また、カトリック派による国政の乗っ取りは痛々しい。同じキリスト教の数的に言えば多数派のアリウス派への弾圧、および伝統的なローマの宗教への弾圧。塩野氏は客観的にそれらを述べている。客観的であるからこそ、ローマ人の物語は私にとっても面白い。とにもかくにも寛容な国家、ローマ帝国は、カトリック派の国政への進出によって不寛容な国家へと変貌を遂げた。もはや国家の元首の皇帝でさえ、司教に頭を下げなければならなくなった。


「宗教が現世をも支配することに反対の声をあげたユリアヌスは、古代ではおそらく唯一人、一神教のもたらす弊害に気づいた人ではなかったか、と思う。 古代の有識者たちがそれに気づかなかったのは、古代は多神教の世界であって、自分の信ずる神とはちがっても、他者の信ずる神の存在を許容するこの世界では、それを許容しない世界を経験していないために、考えが至らなかったにすぎない(キリストの勝利〔中〕178P)」

「神の真の教えにいっこうに目覚めない私のような不信心者ならば、地獄に落ちると脅されても、見て帰った人がいないのだから地獄の存在とて確かではない、とでも言ってこの種の勧誘には乗らないが、古代人はそうはいかなかったのである。ギリシャ人は薄明りの淋しい冥府の存在を信じていたし、ローマ人は、死ねば二人の天使が両側からささえて天に昇る、と信じていたのである。このように考えるのに慣れてきた古代の人々には、そこに落ちたら責め苦しか待っていない地獄は、新しい概念でもあった。新しければ、なおのこと恐怖もつのる(キリストの勝利〔下〕70-71P)」

「人間は、何かにすがりたいから宗教を求める。だが、すがりたい想いはなぜか、唯一神にお願いするのははばかられるような、身辺の雑事である場合が少なくない。昔は、夫婦喧嘩にさえも守護神がいて、その神に祈願するのでこと足りたのだが、一神教の世の中になった今では、夫婦喧嘩を担当していた女神ヴィリプラカもアウトローの一人になってしまっている。(中略)それで、アンブロシウスが考えついたのが、聖人を大量に生産することである(キリストの勝利〔下〕138-139P)